土から何かを作り出すんじゃなくて 土が何かの形になろうとするのを |
私たちが手伝ってあげてるんだ |
動きの中で学ぶというところで 轆轤体験って轆轤って重要だなと思ってて |
やっぱり禅との親和性というものを考えた時に 陶芸というのは不確実性を受け止めるというところで |
近いところがあるのかなと またあと身体性ですよね |
そこで私は陶芸というものを 特に轆轤というものを今学ばせていただいています |
今私が 轆轤体験をさせていただいている場所が 愚人にある朝日焼きという場所ですね |
宇治にあるアサヒやきと言う場所です。 |
ほぼ400年ほど前に小堀遠州の 趣味に合わせて作られた遠州七窯の一つになります |
実際に今残っているのは 朝日焼きさんだけらしいんですけど |
そこの御当主のですね16代目の松林芳斎先生と、今親しくさせていただいていて |
轆轤だけじゃなくって やはりそこでその轆轤を通して哲学みたいなものとか |
私の考えている前途はどういうものだろうかという会話を常にさせていただいております |
轆轤体験あとしかも陶芸というものっていうのがすごくその |
一番それを体で学ぶこともできるし あのー |
すごくその不確実性ってものをこう 表している素晴らしいものだと思います |
えーとまずですねその轆轤ってものですけど やはりその |
自分以外の力がその 粘土ですね土にかかっている |
それに対してどういうふうに自分が力を加えることによって 物が形になっていくんだろうか |
でそこで無理やり形を作ろうとするとまあ粘土が途中でぐにゃっと曲がって しまったりとか形にはならないわけですし |
何もしないでとただ土が回っているだけなんですよね でもその中でですねやはりその |
手を添えてこうまずその使ってくる感覚ですよね |
どういうものなんだろうかって |
右手でこう回転轆轤の回転がこうなので |
右手でこう力を加えていくで左手はこう手を添えているだけではあるんですけど |
でもここのバランスってすごくあると思うんですよね |
こう入ってくるかこっちはちょっと強めじゃないとダメだけどこっちがないと |
あの 土っていうのもこういってしまうわけだし |
ねえまああと形になっていくときにあの こういうふうに器がこう形っぽくなってきた時に |
外と中でこう指っていうのはちゃんと同じ場所にないと 綺麗にこの形って整えることもできないし |
あとこの動かしていく速度を揃えていく でここが実は思っているようにここにある指はここにあると思ってても意外とこうずれてたりとかしたり |
ともあるんですよね なんかそこのなんかこう見えている時の感覚とでもこの手の位置の感覚ってずれが |
あったりとかしたりとかするってそこの面白さっていうのはありますよね 形とかコントロールしようとかそういう自分のエゴが出てしまって |
形にならなかったとだからこそなんか受け入れてみようっていうところっていうか そういう方向で行った時の方がなんかこううまくできている |
松林先生がよく言われることっていうのは まああの |
土から何かを作り出すんじゃなくて土が何かの形になろうとするのを私たちが 手伝ってあげてるんだった |
だから赤ちゃんが生まれようとしているのを手伝って女産婦さんみたいなもんなんですよ っていうふうに彼は言いますね |
大きなことっていうか陶芸を通して学んで一番大きなこと っていうのは |
やっぱり不確実性っていう言葉なんですよね不確実性ってものを受け止めること |
であとそのコントロールができないものっていうのが本当にいっぱいあるんだっていうことで でもコントロールができないからこそ |
このもの こういうものは美しいんだっていうことですよね |
あのそういうことを学べるっていうのがその轆轤っていうものの |
凄さでもあるしあと陶芸の不確実性ですよね あの自分ができたってすごいものできたかもっと思っても |
本当の最後の最後は神頼みというか |
もう そこでこうすべてこう |
こうね両手を広げて受け止めるしかないというところっていうのがありますよね |
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