重要になってくるというのは |
まず第一には物事というのは絶対的に真理というのはなかなか見られない |
逆に言うと人間にはひょっとしたら認識できないんじゃないかと |
まずそこでそういうことを思っていただきたいというところですよね |
どんな学問とかどんな学問であり定説であり |
結局のところというと真実をそのまま見せているということはないんですよね |
言ってみればそれというのは自分の知覚ということにもよることであって |
自分であるがままのものを見ているとか聞いているとか思っているけど |
実はそこにすごく自分というもののフィルターがかかっている |
やっぱりそのものを見るためにも自分のこういうものがあるのではないかという |
予想の下でしか物というのは見えてこないわけであるし |
音が周りでいろんなことがわーってなっている中で |
自分はこういうものを聞いているんだと思うことで |
その音として入ってくるわけなんですよね |
近くのレベルでそういうわけですから |
学問までのレベルになったときに |
やはり自分というふうにこれが絶対であると思っているものというのはないと思うんですよね |
だからこそ真実というのは見えないからこそ |
常にどんどん追求していくというのが大切なんじゃないかなというところ |
だからこそこれが正しいのかなと思って学んだことを切り捨てていく |
切り捨てるというよりはそれを留めておいて |
新しいものを足していくというところですよね |
そういうところが重要ですね |
皆さん自分のこれが正しいと思っていることとか |
これが多分真実だと思っていることを捨てるということは非常に大変だと思うんですけど |
重要になってくるところというのは |
言ってみればいろんな考え方の本とか |
いろんな考え方の人と話してみるところなんですよね |
そこの中で確かに気に入らないところ |
自分の考えに合わないことというのは人間はそれを拒絶しようとするんですけど |
でもそこにこそ一番学びがあるんだというふうに |
まず考えて努力して聞いてみる |
最初すごくしんどいと思うんですけど |
そこが一番まず第一歩になるんじゃないのかな |
自分が聞いて心地いいことという中にあまり学びはないんですよね |
自分が聞いてこれちょっと変かもと思う中で |
意外と学びはいっぱいあるわけなんで |
そういう心構えをしてもらうというのが一番重要だと思います |
自己というものはですね |
やはり矛盾するものが同時にそこに存在しているものだと思うんですよね |
なぜならというとやはり人間というものは |
全てのものをそのまま見ることもできないし聞くこともできない |
やはり何かこう見えてない部分っていっぱいあると思うし |
それが見えたとしてもやはりこう |
それ一部でしかないわけだから |
その状況とか状態によっていろんなものが見えてくるわけだし |
自分というものに対しても |
よく私がこの話するんですけど |
自分というものには3つあるんだと |
1つは自分しか知らない自分がいて |
もう1つというのは他人しか知らない自分 |
3つ目は誰も知らない自分というのがあると思うんですよね |
それというのをすごく矛盾するものであったりとかして |
双方を打ち消したりするようなものでもあるかもしれないけれども |
それはあくまで全体で見たときには自分というものであるわけですから |
やっぱりこの矛盾というものが同じ場所同じ時に存在するというのは |
当たり前なのかなというふうに思ったりもします |
マインドフルネスについてもですね |
私は非常に興味を持っていた時期があります |
今でも軽く教えるときはあるんですけど |
1つはですね |
やはりそのマインドフルネスというもの |
もう1つ重要に考えていたことというのは |
ウェルビーング |
その幸福とかそういうところにはなるんですけど |
やはり最初にやっぱりこの善というものは何かって考えて |
宗教の一部だよなって |
宗教って何を目指すんだろうかって考えた時に |
人の幸せなんだろうかというふうに考えたんですよね |
そういえば言ってみれば |
今ここでの行動が未来に向かって |
何かどんどん良くしていくのが |
ウェルビーング的な考え方ではあるんですけど |
果たしてその考え方が本当に正しいんだろうかという疑問を持ち出した |
そこでウェルビーングの考え方だけじゃなくて |
もっと全体を見てみようというところになったのが今です |
マインドフルネスとかウェルビーングというのをもうちょっとやっていた時に |
やっていた時今でもやっているわけですけど |
初めの頃ですよね |
やはり今の状態というのはあまり理想的な状態ではないから |
そこから人を向上させていくというところというのが |
私の考えに一つはあったんですけど |
じゃあ向上ってどういうことなんだろうかということを考えた時に |
そこが一番難しいところだったんですよね |
言ってみれば向上その一つには |
例えば健康ということもあります |
でも健康って本当に全ての人に対していいことなんだろうか |
確かに健康な状態でいるというのはいいかもしれないけど |
病になったりとか老いることによってしか学べないこともあるわけなんですよね |
そう考えた時に健康というのは万人にとっていいことなんだろうかという疑問が湧くわけなんです |
逆に言うと人間っていろんな感情とか |
いろんなこの身体の状態とかがあるからこそ |
生きているんだというふうに感じられたりとか |
することができるのではないか |
だからこそ今の状態というのはどういうものなんだろうか |
まず受け入れるところというのはまず大切なのではないかと思って |
今がダメだから向上していくんだという考えじゃなくて |
これはありのままの姿であるというような考え方で |
今どういう状態であるか |
自分はどういう状態であるかということを |
受け入れるところから始めるというのが重要なのかなと思い出したんですよね |
このポイントを説明するために |
いくつかの基本となる概念に触れていきたいと思います |
自然と自然という言葉が実は日本語にはあるんですよね |
二つとも同じ感じなんです |
よく皆さんが思い浮かべることのできる自然という感じなんですけど |
二つ読み方があって全然違うことを言っているわけなんですよね |
自然という言葉なんですけど |
これも実は日本明治時代までなかった言葉です |
ネイチャーという言葉ですよね |
英語で言うとネイチャーという言葉を訳しようとした時に |
どの言葉がいいかなというので |
その近い概念というのが自然だったわけなんですけど |
もともとの自然という言葉ですよね |
自然という言葉は |
道教とか仏教に見つけることができる言葉なんですが |
自然というのは物のあり方あるがままって意味なんですよね |
その全体なんですよね |
自然という言葉にした時に |
自然というのは人間に対する自分に対する対象物なんですよね |
だから自分という独立な存在があって |
その外にあるものが自然という考え方 |
ネイチャーという考え方ですよね |
でも自然というのは |
さっきも話したような |
人という概念がありましたよね |
人というのはいろんなものが入り込んだ状態である |
言ってみれば |
人と自然というものは分けられないものであって |
その自然の中に人というものも入っている状態だし |
でもその自然というものも人の中に入り込んだ状態である |
だから分けきれない |
どちらかというと |
仏教用語を使うと |
真如とか一如 |
だから全ては一つである |
あと同教的に言うと混沌といって |
区別がついていない状態であるということなんですよね |
それが自然です |
だから自然と自然 |
同じ漢字を使っているんだけど |
全然違う意味なんですよね |
同じような言葉でですね |
安心と安心というのもあります |
これもですね |
同じ漢字なんですけど |
読み方が違うんですよね |
ただ読み方が違うだけじゃなくて |
意味がすごく違うんです |
安心という言葉 |
これは仏教用語なんですよね |
安心 |
我々よくこれは安心だよねと |
よく使う言葉ですけど |
安心というのは |
英語的に言うとどちらかというと |
セーフティーの方になるんですよね |
これはどういう意味かというと |
自分がこれは危険だと思うことを |
全て排除した状態ですよね |
それが安心なんですよね |
ただ安心という言葉は何なのかなという時は |
これはどちらかというと信頼に近い |
トラストという言葉に近いわけなんですけど |
安心はどういうことかというと |
こういういろんなものが |
いろんな |
良いも悪いものも全て存在している |
このままでもいいよねと |
こういう中でも私たちちゃんと生きてきるよね |
そこが安心になってくるわけですよね |
だから危険とかこれはダメだとか |
これは危ないんだというものを |
全部排除した状態 |
言ってみれば自分が全てコントロールできた状態 |
というものを目指すのが |
安心であるわけであって |
でもそうじゃなくて |
ちょっといろんな分からないものがいっぱいあるけど |
この中でも大丈夫かな |
言ってみれば不確実性が高い状態だけど |
自分というのもちゃんと生きていけるだろうね |
そういう考え方を持つことというのが安心なんです |
だから全てを受け止める |
あるがままを受け止める |
先ほど言ったネガティブケイバビリティという言葉 |
前に使ったかもしれないんですけど |
その言葉の日本語版だと思ってください |
それが安心です |
今ですね |
自然と自然で |
安心と安心という言葉 |
皆さんとお話ししましたけど |
そこというのがどう流動性に通じていくか |
流動性というものは |
すごく変化していく状態ですよね |
変化していく状態って実は |
人間にとってあんまり心地いい状態ではないわけなんですよね |
それはなぜかというと |
不確実性が高くなるからなんです |
固定された状態 |
あまり変化のない状態って |
人間が好むわけなんですけど |
でも変化しないものというのは止まっている |
言ってみればそれは死んだ状態ではあるわけなんですよね |
生きていることというのは |
どんどん変化をしていくわけであって |
やっぱり流動性というのは |
人間が生きている証拠でもあるわけです |
そういう状態不確実であり |
やっぱりひょっとしたら危険なものというのも |
いっぱいあるわけだし |
だから分かりにくい状況ではあるんだけど |
そこを受け止めようと |
そこは安心になるわけだし |
自念というものはあるがままのものの状態ですよね |
そういうところにもなるわけです |
ここは流動性ということとつながるわけです |
流動性 |
安心と安心 |
自然と自念という話をしてきました |
そういうものを今皆さんは知識として頭にいたわけですけど |
それを体で体験していただく |
やはり座禅もそうですし |
日々の生活の中の動きの中で学んでいく |
ここを一番動きで学ぶというのは |
東洋思想の中で一番重要なポイントになってくるわけなので |
動きの中から言ってみれば |
動くということは不確実性が上がるというわけなので |
そこは自念というものでもあるし |
安心というわけでもあるわけですし |
動き |
状態ですから |
そういうものを体で体験していただくというところが |
重要になってくるわけです |
そこが本当の知恵というところになっていくわけなんですよね |
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