川っていうのは何ですか |
川は状態なのか |
それとも物なのか |
場所なのか |
禅というのはですね |
自己を学ぶということになります |
まだそこが一番大切な部分になっていくことだし |
それがずっと |
人生を通して学んでいく場所にはなるんですよね |
禅の世界では |
この自己という考え方 |
今みんなこう |
自分というもの |
自己というものの考え方というのは |
一つであるというふうに思っているんですけど |
いろんな時代 |
いろんな文化 |
いろんな国で |
この自己という考え方がすごく変わってくるんですよね |
例えば自分と世界というふうに |
自分と外の世界というのを分けてみる考え方も一つありますし |
それとは逆に |
自分というのはこの周りの中と |
この世界の中に |
取り込まれているという考え方ということもできると思います |
ただ今ほとんどの国でですね |
日本も含めてなんですけど |
今我々が考えている自己というものは |
どちらかというと |
アングロサクソン的な考え方の自己 |
どちらかというと西洋哲学的な自己ということにはなっているんですが |
それはどういうことかといいますと |
自分というものは |
独立して一つで完結したものであるという考え方なんですよね |
英語でいうindividualという言葉があります |
それラテン語がルーツになっていて |
inというのが否定ですよね |
dividuusという言葉があります |
それが分けていくという意味があるんですけど |
これ以上分けられないもの |
これ以上分けたら存在できないものというのが |
individualという考え方になります |
資本主義という考え方も |
どちらかというと |
自分というものがあって |
世界というものがある考え方である |
でもここの考え方が変えていかない限り |
例えば環境問題というのも今あるわけだし |
そういうものに接していくためにですね |
それをもうちょっと違った観点で見ていこうかな |
というところですよね |
日本の場合というのは |
人という概念がもともとあったんですけど |
それはもういろんなものが |
絡み合った状態であるという |
ものじゃなくて状態であるという考えになります |
因縁とかという言葉があります |
そのいろんなものがつながって |
それがいろんなものとかことがつながって |
今の状態にあるんだよ |
それが自分というふうに思い込んでいるものなんだよ |
という考え方なんです |
私がよく使う例えなんですけど |
川ですよね |
流れる川 |
川っていうのは何ですか |
川は状態なのか |
それとも物なのか場所なのか |
物って言った場合に |
じゃあその川の水をコップですくってみます |
でもそれは単なるコップに入った水になるわけですよね |
じゃあ場所ですかって時に |
じゃあ流れている水を抜いた時に |
それは場所になる川になるのか |
単なる溝になってしまうわけですよね |
そう考えた時に |
やはり川っていうのは |
水が流れている |
あるくぼんだ場所に流れている状態っていうふうになるんですよね |
人っていうものもそういうものではないかと |
どちらかっていうと |
我々が思っている |
完結した独立な存在というよりも |
人っていうのはいろんなものの条件が重なって |
ここにある状態っていうふうに考えたほうが |
いいのかな |
今ここに存在している状態 |
どういうものなんだろうかって見ていく |
それがじゃあどういうふうに変化していくんだろうか |
それによって自分っていうものを手放していく |
そこが重要なポイントになってきます |
その考え方がもともとあったのが |
この明治以前の日本なんですよね |
自己っていう言葉の定義をですね |
ちょっと皆さんと考えてみたいと思います |
その自己 |
よくね私たち自己紹介って言いますけど |
皆さん自己紹介 |
自己っていう言葉を使う言葉で |
よくあります機会でありますよね |
自己紹介 |
ただそこで皆さんが行っていることっていうのは |
実は自我紹介なんですよね |
でその自己と自我ってあるわけですけど |
自己っていうものはどちらかというと |
自分を状態として捉える |
で自我っていうものは |
言ってみれば自分っていうものをですね |
自分をですね |
半永久的なものとして捉える考え方です |
だから自分はこういう人間ですって言ってるのは |
どちらかというと自我なんですよね |
我々がよく使う自己っていう考え方に |
非常に影響を与えている言葉がですね |
個人だと思うんですよね |
でも個人っていう言葉は |
実は明治以前日本には存在しなかったんですよね |
有名な福沢諭吉がですね |
ジョン・ロックの本を訳していた時にですね |
インディビデュアルって言葉と |
ソサエティって言葉 |
二つにこう |
こうぶち当たるんですよね |
インディビデュアルとソサエティって言葉 |
日本語の中当時はですね |
それにこう当てはまる言葉がなかったんですよね |
当てはまる言葉がなかったっていうところじゃなくて |
そういう概念がなかったんですよね |
どうしたらいいんだろうかと |
彼は悩むわけなんですけど |
まずですね |
日本語その当時からあった人という言葉 |
人という言葉を |
インディビデュアルって言葉に当てはめるんですよね |
そこで諭吉は |
インディビデュアルって言葉の語源 |
ラテン語なんですけど |
インディビデュアスって言葉 |
そこに戻っていって |
独一個人っていうのを訳するんですよね |
独一の独に |
1ってここ数字の1っていうカウンティングの数える方の1じゃなくて |
1っていうのを一つで完結しているって意味なんですけど |
言ってみれば |
一つで完結した周りから干渉されない存在であるっていう役を仕方をします |
そこで言ってみれば |
周りから干渉されない1つとして完結したもの |
それが個人であるって考え方 |
彼がインディビデュアルって言葉を個人として訳した頃からですね |
すごく時間をかけて |
今の我々が日本人が考えている個人っていう考え方が生まれてきて |
それこそ今でこそ |
言ってみれば |
あなたらしく生きなさいよと |
自分らしく生きようねとか |
そういう考え方が生まれるわけですよね |
私がよく言う自分っていうものは何なんだろうかっていう時に |
まず一つは日本で育って私いるわけですよね |
でその日本で育っているこの伝統的な |
どちらかというと |
この集団主義的な環境で育っているわけです |
でもう一つがですね |
私アメリカに7年半住んでいたので |
本当の個人っていう考え方 |
自分が全て行動を起こす存在である |
言ってみれば自分の自由意志があって責任があって |
それによって全ては自分の人生の中では |
自分っていうものがよく言われる話が |
自分の人生の中のキャプテンであるっていうか |
そういう考え方を持っているところでも |
生活をしていたわけなので |
2つの考え方がいろいろ混じり合っているんですけど |
やっぱりその善というものを学ぶことによって |
その考え方がだんだんこう溶け合っていく |
でどっちが正しくてどっちが間違っているかっていうわけじゃなくて |
どっちもこう合っているし |
どっちも間違っている場合があるんだよってこと |
すごくグレーなものですよね |
そういう捉え方を自分っていうものを |
できるようになってきたような感じがします |
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